デニムの街、倉敷市児島地区を見つつ、生まれて初めて山陰地方に足を踏み込んできた。。 その1

ども。サスケです。

久しぶりに、まさかの3日間連続の記事アップ。
ブログを始めた当初は、それこそ「最初が肝心!」と言わんばかりに毎日アップしていたんだよなーー。。

雪かきをした、みたいなので1本
床屋へ行った、だけで1本みたいに。

最近はどうも、、
城攻めネタばっかりで、、

そもそも最近はあんまり欲しいモノが無いんだよな。。
「物欲が止まらねえ。。」なのに、物欲止まり気味。。


本題。

以前から書いているとおり、
9/13,14,15の3連休は広島、山口へ。
広島旅行ルート.png

9/20,21,22,23の飛び石4連休では岡山、鳥取、島根
へ城攻めに行ってまいりました。

今回は、その岡山、鳥取、島根の様子を書きます。

大雑把なルートはこんな感じ。
山陰旅行.png

いつもの持ち物はいつものとおり
CIMG1677.JPG

初日は、城攻めも無くて岡山県倉敷市にて宿泊と決まっていたので、9時頃に自宅をゆったりと出発。
通い慣れた松山道~高松道は何ら書く事無く、、

いつも仕事で高松に向かう途中で通過するたびに、「早く瀬戸大橋渡ってみてーな。」と思わせる(まだこの時まで渡ったことが無かった)坂出ジャンクションから気分が盛り上がってきました。
瀬戸大橋.png

ジャンクションを北に進むと、初めて通る瀬戸中央自動車道
そして、瀬戸大橋


海無し長野出身のサスケですら、昭和63年(1988年)の奇しくも同年だった瀬戸大橋全線開通と青函トンネル開通のフィーバーぶりは覚えていますよ。

「これでいよいよ本州と北海道、四国、九州が一つに繋がりました!!!」とかテレビに映るアナウンサーとかレポーターが絶叫しててさ。
それまでは船で渡るしか無かった(飛行機はまた別のハナシだな)四国、北海道が陸路で結ばれて、、

時はバブル時代の末期だったけど、何も分かっていない小学生なりに、日本全体が浮かれまくっていた時代を感じていました。。

「その頃、四国民たち、本州と陸路で繋がって嬉しかったんだろうなーーーーー。。。」

その年末の紅白歌合戦とかじゃ、多分、石川さゆりさんが『津軽海峡・冬景色』とか歌ったんじゃない??? ⇐勝手に思い出を美化させる。このままの思い出で良い。


で、便利になって良かったのに、「青函連絡船で渡る事はもう無いんだな。。」とか、青函連絡船に乗ったことのある大人たちも乗ったことが無い大人たちも遠くを見つめて感傷的になっていたような、、、当時のサスケ少年のおぼろげな記憶。。

昭和63年(1988年)って今になって思うと、日本が世界を席巻していて、この「JAPAN IS No,1」の時代が永遠に、今まで通りに、これが当たり前として、時が流れていくものだと疑うことなくサスケ少年も思っていました。。

この時点でノスタルジックな気分になっていました。
この記事も昭和63年を間近に控えた昭和60年頃のおもひでの記事


それなのに、、
それなのに最近朝のテレビを見ていたら、瀬戸大橋全開通の時に建ったホテルが今は廃墟になっていてジャマだ、とか紹介されていて、、

瀬戸大橋の途中のサービスエリアで写真を撮りつつ、、
IMG_20250920_110125.jpg

「スゲーな!!瀬戸大橋!」山の民(長野県民)驚愕!
そして上記の諸々を思って何だか感慨深くなって涙目!


この曇り空がまた哀愁を誘うのよ。
初めて見るのに、懐かしい。。みたいな感情。。

瀬戸大橋をこんな感情で初めて見れただけで、何だか得した気分。

3泊4日の旅はまだ始まったばかりなのに、「やっぱ来てよかった。」と思わせるほどのハイライト。


いかんいかん!
まだ旅は続くぞ!むしろ始まったばかりだ!!

で、この時点でまだ午前11時を少し回ったくらいで。

「今日の宿泊は倉敷だけど、それまでどうやって時間をつぶそうか。。」
考えるサスケ。

「やっぱ、ブログ的に倉敷と言ったら、行かなきゃいけないわな。あそこは。。」

そう。
アメカジラバーであれば、岡山県倉敷市は冠言葉。。
それに続く言葉は、、、児島地区。。

言わずと知れた国産デニムの聖地。

うん。
児島へ行こう。

ノスタルジックな気分に疲れたので、次回にします。
次回に続く。

コメントください。

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